ベネチアビエンナーレ編:コヨ・クオからのメッセージ
更新日:9月8日
さまざまなご縁が重なって2026年のベネチアビエンナーレ(以下VB)の日本館代表の荒川ナッシュ医さんのスタジオマネージャーを務めています。せっかくなら記念すべきその展示を観に行こうということで、ベネチアに本当に行ってきました。様々な出来事があった今年のVBですが、全体のメッセージや国別パビリオンの所感などいろいろあったので、数回に分けて記録を残したいと思います。初回は、今回の全体キュレーターであり2025年に急逝したコヨ・クオからのキュラトリアルステートメントの読み解きです。

今年、VBは"In Minor Keys"というテーマを掲げて110の参加者(個人・デュオ・団体を含む)を集め、GiardiniとArsenaleで展開されました。仕事上国別パビリオンでほとんど構成されるGiardiniに滞在していることが主だったのですが、ふと疑問が沸き上がりました。「Minorとはなにか。」
公式カタログでクオが残したステートメントでは、Minor Keyの着想が実は音楽の短調から始まっていることが明らかにされています。短調というとどこか物悲しさや悲劇的な印象を与えることの多いものですが、同時に穏やかさなど柔らかな印象を与えることもあります。このような感情への装置としてMinor Keyを取り上げたとされています。
続く文章でクオは極めて重要な点を指摘しています。Minorと聞くと、私たちはすぐにMajorと対比させ、小さなものと大きなもの、弱いものと強いものというような二項対立の構造に置いてしまいがちです。しかし、クオのMinorの考え方は違っていたようです。クオは"the elsewhere and the otherwise"という表現を用いて、In Minor Keyとは別の場所やあり方へと通じる入口という概念であることを提示しました。見えにくいもの、隠されてしまっているものであってもこの不安定な世の中で続いているならば、それをIn Minor Keyという手法によって聞こえにくいものに耳を澄ませたりしたり体験したりできないか、という考え方のようです。実際に個別のパビリオンを見ていくと、非常に大きな問題を矮小化してユーモラスに捉えなおす提案をするような展示や、In Minor Keyを明確に可視化してしまおうとする展示がありました。
Minorという概念について、クオはさらに「小さな島でもある」という趣旨の文章を続けます。ここは少し抽象的で私もまだかみ砕き切れていない部分でもありますが、直接引用をすると「独自のエコシステムを持つ島の集合体」を世界とみているようです。つまり、安定に欠けたこの世界を構成するのは大きな一つのものではなくて、固有の生態系をもつ小さな世界が相互に連帯し織りなしているものである、といったところでしょうか。この節の締めに、今年のVBではpolyphonous assembly of art(=多声的な芸術の集合体)を実現するという宣言が記載されていました。
ここでクオがなぜ「In Minor Keys」という着想に至ったのかを彼女のキャリアから考察してみましょう。1967年に生まれたクオは、アフリカ現代美術をめぐる国際的なキュレーター/文化プロデューサーでした。しかし、美術一本のキュレーターというわけでもなく、もともとは経営学を学んでいた異色の経歴を持ちます。その経験を活かし、セネガルには芸術にまつわる知識を生み出すRAW Material Companyという芸術センターを作り、アートをめぐる知識や対話、教育、制作などのためのインフラを生み出すことに注力していたそうです。その後はドクメンタ12、13のキュラトリアルチームに参画し、そして2026年のVB開幕まであと1年という2025年5月に急逝しました。
クオがRAW Material Companyを立ち上げたことは、美術館という制度への批判的姿勢とも取れます。カメルーン生まれで、アフリカ現代美術をめぐる活動を続けてきた彼女にとって、誰がアフリカを語るのかというのは重要な問題です。美術の中心とはなにか/どこか、周縁とはなにか/どこかを考えるとき、誰が知識を生産し、保存し、語るのかは重要な議論点です。その点を、クオは既存の制度に依存することなく、RAWという施設を作ることで「自らが語る」という選択肢を周縁とされがちなアフリカにもたらしたのではないでしょうか。実際、2024年のThe Art Newspaperのインタビューでは美術館を展示だけの空間ではなく、経済面、人材面、設備面など様々な要素が絡み合った複雑なものであると認識していることを述べており、いかにその制度を持続可能なものにするかに関心を持っていたようです。(参照:https://www.theartnewspaper.com/2024/04/22/how-koyo-kouoh-is-getting-zeitz-mocaa-museum-back-on-track?utm_source=chatgpt.com)
この議論は発展させると、美術館の権威性にもかかわってきます。美術館が保存する知識や資料といったものはどうしても重視されがちで、いわゆるMajorなものとして位置づけられます。しかし、クオの実践を個人的に解釈するなら、美術館が選ばなかった知識や資料にも重要かどうか以前に別の視点をもたらす力があることを示唆したかったのではないかと私は思います。
この延長線上に、美術館の議論にとどまらない、「世界」というより大きなものの尺度ではとらえきれなかった、別の知識や実践、時間、関係性などのMinor Keysへの展開が今年のVBのテーマとなったのではないかと推察します。
「In Minor Keys」でのクオのキュレーションのスタンスは、知識を一方的に伝達するのではなく感覚的な体験にすることを構想されています。驚き、楽しみ、考え、他者と時間を共有することといった、感覚的、身体的な経験を通じて次へ向かう力を回復させる展示と記されています。具体的に何を示した次であるかは分かりませんが、Minorなものをさらけ出すこと、見つけ出すことで、新しい問いを掘り出していくような感覚なのかもしれないと想像しました。
ただし、どうしてもジレンマになってしまうのは、結局このVBにおいてなにをMinorとして選択したのかはクオ本人であるということです。クオのようにMinorなものに耳を済ませよう、見方を変えようという試みであっても、その線引きにはキュレーターという権力を持つ誰かがかかわります。ともなれば、既存の権力が生み出してきたMajor/Minorの境界を問い直す試みそのものが、新しい権力によって別の境界を生んでしまうという皮肉を孕んでいるようにも感じました。
このテーマを各国のアーティストやキュレーターはどう読み解き作品に落とし込んだのか、クオ亡きあとキュラトリアルチームはいかにクオの構想を実現したかを見ていきたいと思います。


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