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今、ホワイトキューブを考える

Kanako Nagayama
8月11日
読了時間: 5分

前回までは唐突に日本と韓国の美術館の比較をしていましたが、やっと日本の美術館(厳密には公立博物館・美術館としましょう)の話に戻りたいと思います。


さかのぼること1980年代後半、日本は当時の経済状況を踏まえ地方債を多く発行する政策に踏み切りました。それから約10年間の間に、日本国内の地方自治体は地方債を使って多くのハコモノを建設するに至ります。その結果の一部が、今日も各都道府県に多く残されている地方自治体による公立博物館・美術館たちです。


しかし建設されて30~40年が経過し、建築物として老朽化してきたハコモノは今や維持管理が必要な公共文化インフラとなりつつあります。文部科学省は平成23年(2011年)に「博物館の設置及び運営上の望ましい基準」を公示し博物館等の維持の重要性を強調する一方で、国・地方自治体ともに文化政策に割かれる予算は極めて限られたものです(参照:https://www.mext.go.jp/a_menu/01_l/08052911/1282457.htm)。

むろんその予算には、作品そのものの維持管理だけでなく新規獲得、また当然のことながら現場で働く職員の人件費も含まれるので、建築物の刷新がそう簡単に捻出できる費用でないことは想像に易いと思います。


このことから、というだけではもちろんありませんが、芸術そのもののトレンドも含めて今は「オルタナティブスペース」と呼ばれる、美術館ではない空間の外に飛び出た空間での芸術実践が展開されるようになっています。私の周りでも多くのアーティスト、キュレーターがオルタナティブスペースのキュラトリアル実践や議論を展開し、ハコモノの次の時代が来たかのような印象を持ちます。


さて、私の主張はここにあります。「公共資産として、不動産として残り続けるハコモノが抱えた既存の課題から、全員が目をそらしてオルタナティブスペースに食いついていいのか」です。


少し概念的な話を挟みましょう。この時代にできあがった多くの公立美術館は、1929年設立のニューヨーク・MoMAをはじめとする近代美術館の展示形式の影響を受け、こうしたホワイトキューブ的な空間を備えています。一見、作品鑑賞に最大限干渉しない、シンプルな白壁を基調とした構造です。


しかし、このホワイトキューブが実はかなり作品鑑賞に干渉していると主張したのが、Brian O'Dohertyの『Inside the White Cube』(1976年)です。今からちょうど50年前に出版された本になりますが、その批判の核心は今日も残り続けていると考えられます。


O'Dohertyは、かつて(19世紀ごろ)絵とは壁に対して窓のようなものであったことを指摘しています。これは壁に固定された大小さまざまな絵を指しているでしょうし、その代表格には(だいぶさかのぼりますが)オランダのデルフト派たちが多く描いたトロンプ・ルイユ*の技法があげられると思います。

*あたかも作品が壁や窓の一部かのようにみえるようカーテンなどを描きこむ技法です


ところが、印象派をはじめとする近代絵画の時代に入ると、絵は壁から独立した対象として認識され、それ単体で成立する自律的な対象として扱われるようになったと述べています。O'Dohertyはこの現象を「作品の自律」という表現で述べていました。その後さまざまな作品傾向が登場していくにつれ、作品の自律性が確保されていくにあわせて作品と飾られる壁の境界が重視されるようになりました。


それだけにとどまらず、キュビズムや表現主義、ダダといった20世紀美術は「作品をどう見るか」という見ることの体験自体を問い始めます。作品だけではなく、作品を見るという行為・鑑賞者・展示空間それぞれの関係が問題化してきました。こうもくると、作品を展示する空間もただ飾るだけではなく、作品の見え方に身体性が伴い、鑑賞者のもつ文化や知識といった「見る」にとどまらない空間構成が作品から要求されるようになります。空間は作品や鑑賞者に対して対立的(hostile)な立場をとるのです。やがて、空間は鑑賞者に「作品をどう見るか」を方向付ける制度的環境となり、作品そのものにも干渉するようになります。たとえどんなに白い壁で白い天井であろうとも、ホワイトキューブは作品に対して中立でいられない、というのがおおまかなO'Dohertyの主張です。


このホワイトキューブの概念的問題は、日本の公立美術館が抱える維持の問題だけではなく、どのように作品を見せるかという問題にもつながっていきます。


O'Dohertyを踏まえて日本の現状をみると、どこに旅行に行っても一つは公立の博物館や美術館がある状態です。何らかの作品を有し、ホワイトキューブ的な形式を採用していることがほとんどです。その一方で作品は新しいものが日々生まれ、現代美術と呼ばれるものは壁掛けや台座にとどまらない新しい空間を要求し始めているようにも思えます。ゆえにオルタナティブスペースへと議論が展開されているのかもしれませんが、上述の通りハコモノは簡単に消せるものでもなく、いつまでも残る不動産です。


私は現代美術が広がる21世紀の今だからこそ、日本が抱え込む多くのホワイトキューブをどのように現代美術に更新できるかを、その中立的ではない性質を踏まえながら検討すべきではないかと考えています。今あるホワイトキューブたちの制度性・歴史性・建築的条件を認識したうえでどう現代美術を組み込むことができるか。そのためにキュレーションの実践を重ねていきたいし、博物館経営とはなんであるかを深めていきたいと思っています。


芸術は常に予想だにしない方向へ展開していきます。しかし船の進んだ後に波跡が残るように、展開の後には後始末をしなければならない課題や、考え事や、対処事項が多くあります。私は新しい方向にがむしゃらに飛びつくのではなくて、今目の前に転がる課題を拾っていきたいと思っています。


博物館の権威性であったり、少し似たハコモノでもっと身近な映画館との比較なども今後見ていきます。

 
 
 

1件のコメント


Kanako Nagayama
8月12日

参考: CATPC《The Judgement of the White Cube》(映像作品)

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